2011.06.10 Friday

最果ての夢

 店長ブログも久々ですね。

自分は欲求を溜め込んでやるタイプなので、いつもごてごてにまわります。

HPを少し改修しました。

利便性があがると良いです。
そのようにじょじょに分かりやすくして行くことは、
分かってきた証でもあるんですけどね。

とりあえず改修にあたって文章を一杯書いたので、BLOGはこの程度で。

キッチンペーパー三号のための原稿はあげて
先日デザイナーの浮舌に渡したので、出来上がりが楽しみです。

ナパーム片岡
2011.05.19 Thursday

城。

GRAYFIELDの二号を作り始めたいと思います。
GRAYFIELDというのは、アジびらですね。
執筆から編集から自分でやって、自家プリントで少数発行してます。

悪癖というか、アンビヴァレンツを私は好みます。
臆病なのかだけかもしれませんが、
断定するような強い意思の力に、
どこかファナティックな「狂気」の臭いを感じ取ってしまうので、
どちらかというと意図的にアンビヴァレンツな行動や言説を取る。
意図的、といっても、どこまで意識的なのか自分でも判然としません。
旗からみたら両義的な行動様式のほうが、不審でしょうね。

で、やっぱり現実的な処世やあれこれのやりくりを考えると、
行動のいちいちが断絶し引き裂かれたものだと困るわけです。
というわけで、中間領域というのを私はロマンをもって開拓したい。
窮した時の行く先として、アレかコレかの間、
その辺りかな?って場所。
たぶん、この辺り。でもわからない。
わからないけど、飛び込んでみる。
そうしたら案外引き裂かれた価値観の間で膠着状態になっているのを、
回避できる。・・・回避といか、少なくとも動的であるし、
静止状態がうむ滞留の腐敗からは逃れられる。

で、GRAIFIELDというコンセプトのアジびらです。
アジびらっていっても、私はノンポリ/ノンセクト/ノーレリジョン
なので、なにをアジってるのかよくわからないかもしれません。
そのあたり、あまり自覚的ではないのですが、
心情的な左翼気質と、オーセンティックを好む趣味など、
やっぱ自分はむちゃくちゃなので、
毎号趣向を変えてお届けするつもりです。
「仮面の嘯き」。

第一弾は、80Sインダストリアル風味のデザインにしました。
次は、なににしましょうかね。
文体模倣とその文体がもつイメージから乖離したデザインを取り入れましょうか。


さて、今日は多摩地区に用事があっていってきました。
緑が多くて深かった。しばらく前に多摩のほうに住んでたので、
少しだけ懐かしい気分に浸りながら、
久しぶりの陽光を全身に浴びながら、
沢山歩きました。
途中にあった古書店で「日本の城」の豪華本が
格安で売りに出ていたので買って、
帰りの電車のなかで軽く読みました。

私もこれで一応経営者なので、
一国一城の主ともいえるのですが、
天守閣を構える威容をたたえた立派な城も良いのですが、
枯れ野や山の奥深くに居する枯れた城に興味が引かれました。
となると、その趣味志向からいえば、天下統一など
無理な性分なのでしょうね。
内心に巣くう野心は否定しませんが、慎ましやかなものです。

ナパーム片岡
2011.05.19 Thursday

城。

GRAYFIELDの二号を作り始めたいと思います。
GRAYFIELDというのは、アジびらですね。
執筆から編集から自分でやって、自家プリントで少数発行してます。

悪癖というか、アンビヴァレンツを私は好みます。
臆病なのかだけかもしれませんが、
断定するような強い意思の力に、
どこかファナティックな「狂気」の臭いを感じ取ってしまうので、
どちらかというと意図的にアンビヴァレンツな行動や言説を取る。
意図的、といっても、どこまで意識的なのか自分でも判然としません。
旗からみたら両義的な行動様式のほうが、不審でしょうね。

で、やっぱり現実的な処世やあれこれのやりくりを考えると、
行動のいちいちが断絶し引き裂かれたものだと困るわけです。
というわけで、中間領域というのを私はロマンをもって開拓したい。
窮した時の行く先として、アレかコレかの間、
その辺りかな?って場所。
たぶん、この辺り。でもわからない。
わからないけど、飛び込んでみる。
そうしたら案外引き裂かれた価値観の間で膠着状態になっているのを、
回避できる。・・・回避といか、少なくとも動的であるし、
静止状態がうむ滞留の腐敗からは逃れられる。

で、GRAIFIELDというコンセプトのアジびらです。
アジびらっていっても、私はノンポリ/ノンセクト/ノーレリジョン
なので、なにをアジってるのかよくわからないかもしれません。
そのあたり、あまり自覚的ではないのですが、
心情的な左翼気質と、オーセンティックを好む趣味など、
やっぱ自分はむちゃくちゃなので、
毎号趣向を変えてお届けするつもりです。
「仮面の嘯き」。

第一弾は、80Sインダストリアル風味のデザインにしました。
次は、なににしましょうかね。
文体模倣とその文体がもつイメージから乖離したデザインを取り入れましょうか。


さて、今日は多摩地区に用事があっていってきました。
緑が多くて深かった。しばらく前に多摩のほうに住んでたので、
少しだけ懐かしい気分に浸りながら、
久しぶりの陽光を全身に浴びながら、
沢山歩きました。
途中にあった古書店で「日本の城」の豪華本が
格安で売りに出ていたので買って、
帰りの電車のなかで軽く読みました。

私もこれで一応経営者なので、
一国一城の主ともいえるのですが、
天守閣を構える威容をたたえた立派な城も良いのですが、
枯れ野や山の奥深くに居する枯れた城に興味が引かれました。
となると、その趣味志向からいえば、天下統一など
無理な性分なのでしょうね。
内心に巣くう野心は否定しませんが、慎ましやかなものです。

ナパーム片岡
2011.04.27 Wednesday

20TN!/forestlimitのVJパフォーマンス

ハラジュクニュートピア@VACANTでの20TN!の
VJパフォーマンスです。
操作しているところばかり映っていて、
肝心な趣致力映像はとれてませんが・・・

HPにこのような映像アーカイブを増やしていこうと思います。
SHOW DOWNのページに写真も。
あと、音源があればそれも。
 
2011.04.27 Wednesday

イベントスペース・・・?

ナパーム片岡です。

夜カフェ、っていいですね。ふと思いついた言葉ですけど。

カフェっていうとオープンテラスで開放的でシャンゼリゼ通り
でカプチーノなイメージですが(代々木八幡とかw)、
夜ってつくと、ちょっと重力を感じる。
その重力こそが私にとって重要で、なにか特別な雰囲気を持った、
とても大切で親密な空気がある・・・夜カフェ、いいですね。

バーの世界も私は好きです。
三鷹台に住んでいたときは、近所のパブにもいったりして、
ワイワイ楽しんでました。

幡ヶ谷にはいろんな素晴らしいお店があります。
下町的な雰囲気が濃厚に残っており、
商店街を中心に楽しめるスポットが沢山あります。
幡ヶ谷の酒飲み&カフェ好きには、フォレストリミットはまだまだ
浸透していない店だと思います。
ある程度、意図して「地下活動」をしてたところはあったのだけど、
やっぱ地元の人と楽しく飲みたいじゃないですか。

それは、一年間、幡ヶ谷でお店をやって、
この街が大好きになったからです。
多くの方が幡ヶ谷にすでにお住まいですし、
また、幡ヶ谷にわざわざ足を運ぶ価値がある街なんじゃないかと、
そう思い始めました。
その観点で、少しだけ営業を始めます。
五月末までに様々な仕組みの変更を行って、
リスタートしたいと思います。

夜カフェ「フォレストリミット」です。
その為に、フード開発を南風食堂に依頼してます。
お酒の選定も進めてます。
あと、お酒を飲まなくても/飲めなくてもいい店でありたい。
ソフトドリンク、特に紅茶とコーヒーの開発も頑張ってます。

さて、お楽しみに。
じゃぁ、六月から夜カフェ営業するの?って思われるかもしれませんが、
昨日からもうはじめてます。
始めながら準備を進めてます。

Work in progress!
Let's enjoy it together!! : )
2011.04.25 Monday

マイナーポエット〜あるいは魂の不在

フロアは静寂に包まれていた。
いや、実際のところ音は鳴リ続けている。
音に抱きしめられるように、安息の気分で満たされ、
意識は緩やかに深沈していく・・・。

しかし、なにかの異物感を感じる。
馴染めない何か、交わりきらない何か。
具体的に指し示し、明示し得ない何か。
恐れの感情を惹起し、人を不安足らしめるなにか。

しかし、その安息と不安の混合は、完全に分離し、
二者択一のどちらを選択できるのではない。

安息と思えた空間も、恐れが侵入するから危険なのではなく、
安息という状態そのものが、危険性を孕んでいる。
おそらく、ある確信は(存在しうるはずの)別の可能性を排除する。
その構造自体を、暴力の名で語ることも可能である。

明確な暴力を私は嫌悪するが、
隠蔽され、無意識下に働く暴力を私は恐れる。


世の中には、沢山の便利な言葉が存在していて、
人は様々な使い方をする。
でも、同じ言葉でも人によって重さや軽さ、
強さや弱さが変わってくる。
人物との距離と人柄によって大きく語感が左右される。
それは音楽においても同じであると私は信じている。
そして、それは演奏者だけ話ではなく、
DJにおいてもいえる。

テーリさんのDJは過剰な主張が含まれているように感じた。
テクニックも選曲もハイコンテキストなのだ。
テキストの読解をするためのエフェクターの多用、過激なアイソレーター(EQ)
の設定を行い、個人的なパラグラフを構築していく。
それは、テーリさんならではのパラグラフだ。

その物語は、まる良質なでマイナーポエットのごとく美しい。
全体を理解するのではなく、たまに現れる共振点に深く感銘をうけ、
拭いがいたいほどの共感と感動を覚える。

もとより伝わりにくいことなのだ。
伝わりにくいことを伝わりにくい方法で実践するに、
マス的な波及効果は薄い。
しかし、メッセージに共振した人の魂は、激しく揺さぶられる。
伝わる人には伝わる(だが理解できないものはまったく理解できない)。
コミュニケーションの真実である。

テーリさんのDJに真実をみた(というのは言い過ぎかもしれないが・・)。
だがそれは私の極個人的な真実である。
その真実は現れては立ち消え、消えては現れてくる。
真実を感じさせるノード(接合点)の場所こそが、
魂が完全に不在になった場所(瞬間)なのだろうか?

ナパーム片岡
2011.04.19 Tuesday

ラーメンの話。

 ナパーム片岡です。

ところで私の青春は中央線とともにありました。
中央線のサブカル(チャー)の引力に引きつけられてました。

そもそもその手のサブカル的なものにはじめて触れたのは書物ですね。
私が高校一年頃でしょうか、10数年前ですが、
通学していた静岡は富士市の高校の近くにアオイ書店
という比較的でかい本屋がありまして、
そこの一角にペヨトル工房や青弓社、コアマガジンなどが
占めるささやかなカルチャーコーナーがあったわけです。
銀星倶楽部のバックナンバーの隣に「世紀末倶楽部」があって、
そのちょっと隣は園芸コーナーで盆栽本が置いてあるような
(ポットプラネットとかも併置w)。
半径2メートルのカルチャーがものすごい振れ幅で、
「郊外」と「異端」の物理的距離は近かった。
当然私を魅惑したのは「異端」でした。

故あって上京してから三鷹の南口に住み始めました。
大学進学が上京の理由でしたが、
どちらかというと私を夢中にさせたのは、
中央線カルチャーだった気がします。
それを支える多くの店(書店、ギャラリー、ライブハウス、
オルタナティブスペースetc....)。

三鷹南口で個人的な「中央線的」思い入れが強い店は、
中華そば「江ぐち」と「時代屋」という古本屋です。

さて、その中華そば「江ぐち」は昨年惜しまれながら閉店してしまいました。
ところが、その「江ぐち」が中華そば「みたか」として復活したことを知り、
買出しで三鷹の近くまで行ったので恐る恐るよってみました。
なぜ恐れるかというと、あまりに旧日の江ぐちに思い入れが
ありすぎたからでしょう。喜び勇んで足を運ばなかったのも同じ理由。

この手の感覚は、江ぐちを知る多くのファンが抱いたことかと思います。
なんというか、とても特別な引力をもつラーメン屋だったのです。

それこそ、三鷹在住時代の私は毎日「江ぐち」通いでした。
それほどまでに狂ってしまった。
極めて作りが荒いラーメンでした。魔力を持ったラーメン。
なぜか奇跡的に成立し、存続し続けていた江ぐちの「そば」
(売上げ的には人気店ですのでつぶれる余地はないですが。。。)
再現は不可能と閉店した時点で悲嘆しました。
一子相伝の秘術が途絶したような感覚。

で、まぁ「みたか」に行きラーメンを食してきました。
同じ立地、居抜きそのままの店舗。
以前、下働きしていた大柄の兄ちゃんが威勢良くお出迎えしてくれました。
彼が、再興の主、メシア、あるいは魔のものか。
江ぐちでは七年修行したと聞きました。
まず、水が水道水じゃないのがなぜか残念。
カルキ臭い水に辟易してたはずなのに何故?
それはともかく江ぐち独自の製造ラインと製法は守っておるよう。いいねぇ。
五目ワンタンらーめんを注文しました。
江ぐちの五目はものすごく雑なもので、それが良い。
ワンタンはおまけ。実は一番楽しみにしていたトッピングはもやしでした。
伝統のスタイルでちゃっちゃと仕上げて提供してくれたのだけど、
オーダーが通ってなかったみたいで、ワンタンめんがきた。
ぐぐ、これじゃもやしが味見できない。しかし・・・まぁ面倒だからいいか。
問題は独特の麺とスープの出来なのだから。

極個人的な感想ですが、結論から申し上げると、
DNAは確実に引き継がれていた。
だが、江ぐちの味とは微妙に違う。
この微妙さがやはり惜しまれる。
麺のコシと風味が少し違う。
スープも少し弱い。
江ぐちは復元され得なかった、のか。
しかし・・・なぜだか私は納得した。

三鷹江ぐちはかの地で50年以上営業を続けていたはずだ。
私が知っているのはその最期の十年ぐらい。
それ以前の江ぐちは知らない。
そして、「みたか」に内包された「江ぐち」は、
私にとって身近なものだったが、
「みたか」が切り開く中華そばを私は知った。
この地であと50年「みたか」が続き、
多くの満腹と幸せと中毒を生み出していけばいいじゃないですか。
武蔵野に寄った際は、中華そば「みたか」にラーメンを食べにいきたいと思う。

PS
昔、「時代屋」の雑本コーナーにラーメン雑誌があって、
江ぐちの特集が組まれていたのだけど、
スープの詳細の作り方が開陳されていた。
ちょうど手持ちがなく購入しなかったが、
後日、買いにいくと既に売れていた。
雑誌名(ムックだったかも?)も分からず、
ずーと探しているのだけど見つからない。
いつかまた巡りある日がくるのか知らないけど、
その「幻」の雑誌を求めて、
古本屋の雑誌コーナーでラーメン雑誌をたまに掘り返す。
それはたまに思い出す習慣で、かれこれ10年以上続けている。


2011.03.25 Friday

商いという骨格。

表現者の皆様におかれましては、
本震災の影響を内面化され、
とても複雑で戸惑う気持ちにあると思います。
そんな戸惑いの声をよくお伺いします。

私としてはFORESTLIMITの門戸を正々堂々開き、
場所が場所として機能するように、
ちゃんとしたオペレーションと状況に対する配慮をして
営業を続けたいと思います。
そして表現の炸裂するスポットとして位置づけられれば良いです。

今年は、FORESTLIMITの「表現」領域での
拡大を考えております。
しかも、それがちょっとしたビジネスにつながるような。
当然ですよね、FORESTLIMITは事業体ですから。
まぁ現状では事業体っていうより商い(商売)というべきかもしれません。
それ前提での表現行為です。

フォレストリミットは・・・飲食店/イベントスペース
・・・アミューズメントの現場であるし、
アートスペースとしての文化的責任もありますが、
「商売」であるという基本の骨格を度外視しません。
むしろすごく重要視してます。
利益を最大化することが重要であると思います。
むしろ利益の解釈について思案してます。
お金、は解しやすい目標ですよね。当然重視してます。

さて、今日はリザーブパーティですので一般営業ではありません。
少し寝たら準備にかかりたいと思います。

では。

ナパーム片岡
2011.03.21 Monday

Dancer in the Dark

 照明を極力しぼったフロアに人が溢れかえっている。
過剰な虚飾を極力排した室内に、大型SPから重いビートが放射されている。
暗闇の中で、人は踊っていた。
盲目的なまでに直裁に、ビートに、酔いに、音楽に身を委ね、踊っている。

私はPA卓の前で凝固していた。
23chと24chのピークインジケーターが赤く点滅している。
エマージェンシーコールだ。
だが、今回の場合、フロアが熱狂していくサインであると重い頭で感じた。
フロアが熱狂するのだ。もっともっと。
人は踊っているのだ。もっと激しく。
暗闇の中で、全身体器官から音を吸収し、
臓腑が、脳髄が、胆力が、鼓舞され、踊る。
エマージェンシーコールが点灯し続けている。
普段なら・・・事態の改善に向けて職務上の作業に追われたかもしれない。
しかし、今日の私は、エマージェンシーコールが激しく点滅するほど、
渦中の非常事態なる状況に吸い寄せられていった。

笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか、私には暗くてわからない。
おもむろに、私もフロアに飛び出していく。
私自身、もはや笑っているのか、泣いているのかわからない。
フロアの片隅で、多くの友人が声をかけてくれた。
固い握手しながらにっこり微笑み、祝福の言葉をかけてくれた。
私ははっきりとある感情を自覚した。
すると唐突に、涙が私の視界を奪った。
視界を涙に阻まれ、暗くて賑やかな室内で、私は踊っていた。


forestlimitが365日目の営業日を迎えた本日、
CheeさんとCMTさんの最高のプレイに、
多くの人が心躍ったと思います。
私もその一人です。

一年ありがとうございました。
今日からもまた、forestlimitのARTATTAKは続きます。

ナパーム片岡
2011.03.18 Friday

震災後の世界。

 forestlimitでは営業を開始することを決定しました。
私は、表現者であり経営者であります。
願わくば「表現としての経営」を模索し続けた一年でした。

それはつまり、商売抜きで表現に加担するのでもなく、
表現を軽視して商売することでもありません。
その中間領域。それを目指した。

目指したといっても確たる方向性があるわけではない。
あれかこれかの心情的せめぎ合いの中間を選択すること。
それは未明な地点であり、合目的ではない。
つまり、ストラテジーはないのです。

それを前提とした精神的根拠は、柔軟であること。
改悪解釈すれば優柔不断であることもまぬがれない。
であるが、迷いを捨て去った決断は勇敢とはいえ、
それはそれで蛮勇にいたり、多くの排除が生まれることも事実です。

優柔不断さは、時に寛容に見えるかもしれません。
その寛容の代替後として「愛」なんていう単語を表明したくなかった。
私は、多分に不寛容であるし、多くの愛の形を知りません。

そのような宙ぶらりんの精神は、過酷な生活を強いたことを告白します。

forestlimitは営業を開始します。
この営業がポリティカルにコレクトかどうかもわかりません。
全ては混乱なのです。
震災前の世界でも私の世界はそうでした。
震災後の世界も、私はそのようにあると思います。

震災後と震災前の世界で共通した世界に対する認識と対応は
私にとって「混乱」なのです。
では?私は、なにも表明しませんが、行為で示します。
行為と心情の乖離に悩みます。
行為は明確で自明な現実を出現させます。
行為と魂の中間領域に私は意識を集中します。
そして、なにかが進んでいく。
進むという事は滞留しない。
よどみとまどろみの死地から、
ずるずると逃げるように生き、また経営する。

つまり、それが私にとってのforestlimitという接点なのです。世界との。

(注記、forestlimitは必ずしも組織かされた事業体ではありません。
多くの決定を分担して行っております。
それって、合目的な経営体制ではありません。
だから、私のダイアローグはフォレストリミットの総意を
示すものではありません。ご了承下さい。)