2012.02.04 Saturday

オルタナティブスペース!?


---イベントスペースとして

フォレストリミットは、イベントスペースとして出発し、
いまもそうです。
イベントを運用するたびに、試行錯誤の連続で、
システムを増強したり、逆に間引きしたり、オペレーションを
の改善策を練ったりやることが沢山あります。

そんなごたごたがありますが、イベントスペースとしての基礎要件として、
私どものスペースは「カテゴライズされない立場」を
宣言するという「矛盾」を命題にしています。

----混沌の先にあるもの

以下、店主のナパーム片岡個人のバックボーンを基点に、
店主が考えていることをお伝えしたく筆を進めます。

例えば90年代中盤のスカム(カルチャー)が持っていたような、
混沌を混沌として提示する(所作をとる)ということに
シンパシーを感じます。ナパーム片岡の文化体験として、
スカムカルチャーは原風景として鮮烈に時代の空気として記憶に残っています。
記憶のなかで、むちゃくちゃするなぁというのが、とても心地よかった。

そのスカム感を現在の状況下で、現実の場所に適用したら?
大きな理念が致命的に喪失した時代において、理念的な象徴を持たない
集団が活動するにあたり、
未分化の混沌以外になにが提示できるのか?と問われれば、
私はそこに美的な判断、しかも一筋縄ではいかない、
過剰で、衝動を駆り立てられ、会場内でうける体験に
イマジネーションの種に火をともすような強度をもった美的な判断が
介在し、また示すことができると考えます。

たとえば、多くのケオティックな活動が、享楽的である点において、
私たちとはことなります。活動の原理が異なると感じます。

具体的には「快楽」はシンパシーを簡単に感じることができます。
これは「〜と比較して」という相対論的立場で申し上げるのですが、
美的な判断(審美感)に比べ、快楽という行動原則はより生に根源的
であるが故に、シンプルで共有可能になります。

私はカオスに快楽を覚える事を第一義にしません。
快楽の熱風に煽られ、資産(といえば大げさですが、
お財布に入ってる数千円とか)や時間を蕩尽することは、
結果として時に反動的でさえあると思います。

美意識や、美意識の根底に流れる感覚は、
強烈に支持するものと「それ以外」を峻別します。
しかし、美的であるかどうかの判断は、
極めて複雑な心理と意識、体調などの組み合わせによって、
その積算的な経験則や強く信じる力(信仰だとか政治的理念とか)に
則って成り立ちます。
複雑な過程を踏んで、シンプルな結果になる。
その時、そのシンプルさは非常に強靭でストイックなものになります。
それは享楽第一から生み出されるシンプルな衝動とはまったく異なります。

---場所の定位

フォレストリミットは、多くの可能性を孕んだ場所でありたいと思います。
同時に、結果として最高の体験を提供できるようにしたいです。
その二つのテーゼの間にある多くの作業や仕事に対し、
慎重な判断と大胆な行動で対処し、複雑さを孕んだシンプルな
結果を残したいと思います。

理念なき運動にさしあたり必要なのは、
知恵をかき集める事よりも、
美的な判断を巡るストラッグルです。

わかる/わからない、という思弁的な序列、
きもちいい/きもちわるい、という生理的な序列、
美しい/醜い、という感覚的な序列、
どれも重要ですが、さしあたり
感覚的な序列を優先しています。
感覚には、多くの次元が異なる要素が複合的に介在し、意思決定するにあたり、
その決定の根拠を豊かにします。
その豊かさ=カオスにこそ、フォレストリミットの基本的な原理があると考えます。

ナパーム片岡
2012.01.08 Sunday

新年あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます。

昨年、フォレストリミットは激動の年でありました。
若いスペースはほっといていても激動、激流のなかに浮かぶ小舟みたいなものです。
会わせて、外部環境に多くの波乱がありました。
3.11、世界的不況、文化産業のダイナミックな地殻変動。
当店のコアとなる音楽カルチャーも、流通の質的/量的変化をみてみればわかるように、
ドラスティクに変化していきます。それが悪化の兆しなのか?と問えば、
なんとなくそんな気もしてしまう。
内部的要因においても、外部要因においても、非常に不安定でした。
ただ、その不安定さのなかから、多くの良き力と思わしき兆候が
立ち上るのを私は体験しました。現場でね。
ま、それがないとこの稼業やってられないのですが、
ただ、そんな機会に恵まれることは大変貴重なことだと思います。
だから、協力してくれる皆様、支援してくれる皆様、ご来場頂けるお客様、
大変感謝しております。感謝をするためにも、いっこいっこの現場を
私は全力で運営してます。

また、多くの自律的で自発的なカルチャーの運動が盛り上がりを見せてきています。
オルタナティブスペースの多発的開設、
インディペンデントマガジンの創刊も相次ぎ、、、
マス的なものより、自分が感じられるリアルなことで、信用に値するもの、、、
「大きな」ものが、そのマス的規模において、私性からは粗雑で、粗暴で、
乱暴で、洗練されていないように思える、、、というのはちょっと
調子に乗ったときの私の感想です。
もちろん「大きな」ものやコトはそれだけで力にもなりえます。
小さなことは、個々を感化する力は絶大だとしても、
大きな運動にはなりえないと考えています。

フォレストリミットは、「大きな」ものに敵意をむき出し、
アンチをとるものではりません。
正直、個人的な反省をいわせてもらえば、小さなコミューンや
文化的トライブがもつ、閉塞した感じは息が詰まってちょっと嫌になることがあります。

文化の血脈というのは、大切です。
ただ、それが礼儀作法の範疇に矮小化されて解釈されたら悲しいと思います。
文化の血脈ー文脈ーは必ずありますし、
ある程度年を重ねるとその重みもだんだんわかってきます。
フォレストリミットというスペースは、まだそれほどの責任を背負ってません。
ただ、関係する人達の交錯する場所として、多くのカルチャーの文脈を意識しますし、
今では廃れてしまったカルチャーにしても、人的なソースや、
コンセプトにおいてそのDNAは引き継がれていくものです。

私は、文化の血脈を案外重要視してます。
それゆえ、それを逸脱する冒険もしたくなります。

本日思いついたロジックをメモしておきます、
まぁ酔っぱらって考えたロジックですが(笑)

「手の付けられない愚者が、時として冒険者になる。冒険者が目的を達成した時、
英雄になる。英雄になったかつての冒険者は、冒険者ではなくなり、
ロートルといわれ愚者といわれる」

さて、フォレストリミットは今年が勝負の年だと考えております。
まぁ、本当のことをいえば、毎日が勝負なんだけど、
今年は、特にそのように思います。

今年一年、今から仕込んでいることも含め、横紙破りも臆しない覚悟で、
がんばりますので、どうぞ一緒に、フォレストリミットで起こる
事件(イベント)で遊びましょう!

よろしくお願い致します。

店主・ナパーム片岡

2011.12.02 Friday

オルタナティブに関する覚書

2011年12月2日
ツイッターでの発言をまとめました。
10月30日にアップリンクで行われた討論会で、
いえなかったこと/考えたことを、特に決めず書き連ねたものです。

ーーーーーー


 
私は、何と戦っているのだろう?わからないのだ。強い憎悪を向ける明確な敵が思いつかない。でも、なにか心にわだかまりがある。そのわだかまりにに怒りが含まれることはたしかで、私は闘争であると認識する。経営とかを。見えない敵との戦い。ラスボスは自分だったりね、ツマラナイオチだけど。 

テンポラリーな役割を捨ててもいいと思う。例えばスペース運営者としての、スペースとか。でも、止めても良いと明け透けにいえるのは、テンポラリーな役割が終わっても、表現者や生活者としての「自分」は終わらない。自分と役割が近似値にあるのが、アーティストランスペースの重要な特質だと思う。続 

資本家にとって(そうだね、居酒屋の店主とか)は止めること=自身の生活の破滅だったりする。アーティストランスペース(以下、ars)は自己とパブリックを分けているが、運営は自己(作家)がやっている。「ars」は公共性と私性が未分化である。「(いつ)やめてもいい」の根拠は「私」だ。

「私たちは始める。でもいつやめてもいい。」運営者/経営者というロールは消えても、私が残るから。私は消えないから。arsというパブリックなものに対する責任意識が希薄なのではないかと危惧する。例!arsのディレクションにおいて、運営者の自己表現としてのコンテンツの選定がなされている。

FLに関していえば、分業化されたパッケージ(PA屋さん照明さんモ切りのスタッフみたいな)を売る「箱」商売は、表現者が表現をするにあたってのバイアスが多い。バイアスは表現を不可避的に限定/規定してしまう。arsは、作家作家が話し合って案件を進めるから、自由度が高い。

当店に限っていえば、重要なのは、クオリティーに関する「配慮」である。真摯で、素晴らしい表現と、なにかのイミテーションだったり、精度の低いコピーを排除しなければならない。でないと、結局のところ閉鎖的な空間にどんどん行き詰まっていき、そして「場末」になるか、退屈が場を支配するのだ。

当店の目指すところは、荒くれ者が集まる「場末」(心地よい仲間意識のなかの小競り合い)なんかじゃない。題目なきオルタナティブは、混乱を志向する、各イベントの一貫性のなさにおいての混乱であり、だが、一貫性のなさ(ターゲッティングがされたサイトの否定)は、まさに豊かさの可能性を秘める

貧困な時代は、過激な行動や理念にすがりたくなる。理念は、明確な社会像を提示する。理念の中身に寄るけど、多くの理念とその運動は、限定的な世界を希求しているという反転があると思う。私は理念を持たない。私にとってユートピアは、確立された社会制度のなかでは実現できない。続

理念的な制度や、強権的な制度は、結局のところ「あぶれもの」が生じる。無政府状態とはいわない。制度があるなかで、より曖昧な領域の経済活動や、表現活動や、生活ができればいいと思う。思いだした。総中流化の時代もあったな。でも、あれは理念的すぎた。理想が高く向上意識が美徳だった。続


2011.10.21 Friday

アマチュアイズムについて、思っていること。

アマチュア、という言葉の訳語で「熱狂的素人」というのがあって、
なんだか胸にすとんと落ちた瞬間があった。

僕はいろいろなことの素人である。
そして、何かしらの体系的な知に習熟しているわけでもなく、
かといって職業的なスキルが専門家=プロの領域に達しているとも思えない。
「熱狂的な素人」にさえなりきれてない半端者だけど、
でもアマチュアイズムについてちょっと放言してみたい。


熱狂的な素人は、ある側面において突出した力をもつ場合が多い。
その力には、歪さがあったり、バランスが取れてなかったり、
不完全なものだったりするけど、
パッションは人一倍だし、どこか過剰に突出した部分をもつ。
そんな人は、時として知の専門家や、職人が思いもつかないことをやって、
驚かれたり、人を困惑させたりする。

その突風のような力は、時として革命を起こしたりする。
革命とまではいかなくても、常識やスタイルの埒外で暴れ狂い、
常識の圏内でスタティックに安寧を得ている人々に対しネグレクトできないレベルの、
強い力や作用を及ぼして、ほんの少しだけでも、
まだ未明の世界のトビラく契機になったり、
あるいはノックすることで多くの人達(マジョリティー、かな?)に
新鮮な刺激を与えたりする。

私のなかで「アマチュア」というのは、だから「プロフェッショナル」
の立場からの「蔑称」ではない。
「アマチュア」はその過剰さ故にアウトサイダーかもしれない。
そのこだわりにおいて変な人かもしれない。
でも、退屈や惰性に対する強い革命的な力をもつ。
「アマチュア」は革命家の資質である。

で、だれしも、アマチュア的な魂はもってるんじゃないかな?と思う。
節度を超えたこだわりや、無意味(例えば経済原則において無意味と思われるような)
行為や、限度を超えた努力(でも、その人なりの特殊なやり方での)。蕩尽。
人間は不合理をテイクすることも多いし、不合理な部分と、
合理的な部分を巧く組み合わせて
なんとか日々を面白おかしく生きれてるのではないかな?

僕は、さてそのようなアマチュアイズムに未だにロマンを感じる。
もはやカビ臭いロマン主義かもしれないけど、
そんな不合理で過剰で力強いものに心惹かれててやまない。

我がうちなる革命家の魂は、どんなに日々の暮らしにが安定して心満たされようとも、
身に巣食う呪いのように生息しているのを、やはり感じてしまう。

ナパーム片岡
2011.09.26 Monday

がんばれがんばれ

私自身へ向けての言葉でもあるけど、
もっと頑張れる気がする。
いや、もっと頑張れ。

この稼業を初めてはや1年半。
場所の賃貸契約の更新が来月(二年契約)だから、
本腰を入れて動き出してから二年がたとうとしている。
新人経営者としての自覚が少し芽生え始めてきた。遅すぎるとしても。

いくつかのジレンマを抱えていることを告白したいのだけど・・・。
なかなかうまく言葉で表現できない部分も多い。だからちょっと違う話しを書く。
多分に感傷的な話しだが、個人的に重要なことだから。


当店で扱っているイベントやコンテンツは、
基本的にアンダーグラウンドだったりサブカルチャーだったり、
たまにカウンターカルチャーだったり、
突飛な現代美術だったりする。いずれいしろマイナー文化だ。

二年の間、私はこの稼業にしがみついて生きてきた。
本当に一所懸命に。

以前、私はあるサブカルチャーの雑誌編集部に出入りしていたことがある。
ものすごくマイナーな局所的な文化を扱っていた雑誌だった。
イベント企画もやり、小さなレーベルもやっていた。
どれもアマチュア・レベルのものだったけど、アマチュアが
プロに対するオルタナティブとして有効に機能していた時代の戦闘的なアマチュアだった。

そこでの私は正直「くず人間」だった。
どういう基準かというと、使えない人間として。
使えなさ、の根幹には、表現やその地盤にある生活に対する認識の
甘さがあったと思う。実際、甘かった。

私が(心の中で)恩人と考えている人は、その雑誌の編集長で、アーティストでもあった。

誠実な人だった。私には、その人がたまに愚直に思えた。
その印象は今も変わってないけど、あの愚直さが、
私の心に大きな作用を及ぼしている。
あの誠実さを思いだすと、私の心は静かに奮える。

特別な場所は人を束縛する引力がある、魅惑された人はそこから動けなくなる。
そして必死に守り、育み、「場所」を継ぐものとしての使命に奉職する。
あの人の愚直さは、そのようなものに起因するものではなかったか、と思う事がある。

当時の私は、その磁場の圏外すれすれのところにいた。
とすれば、私は、自由であった。
自由であるが故の甘さもあった。
その甘い態度で大きな迷惑もかけた。
そんな私には、その場から消え去る事も、
捨て去る事も選択肢として大きく掲げられていた。

私は、結果としてその磁場から離れたのかもしれない。
離れていないのかもしれない。
正直わからないのだ。
物理的には、その場所からは完全に離脱している。

しかし、どこか精神の奥底にあの場所の記憶や熱気が渦巻いているように感じる。
どす黒く、ぐねぐねと複雑で、力強い情念みたいなかたちで。
そして、好むと好まざると、私はその情念に突き動かされている。

いろいろな経緯を知っている先輩に、
「フォレストリミットにはお世話になった人のスピリッツが流れているね」
と言われた。私は本当に嬉しかった。

いろいろな惜別の上に、私の生活や活動は成り立っている。
多くの別れが、私をこの場所に運んでくれている。
そのすべてが良い別れではない。悲しかったり禍根を後に残したり。
まったくやりきれないけれども。
恩人との別れは、痛恨の極みであった。

私が継いだスピリッツとはなんだったのか?
今、その問いを、私は明瞭に感じられる「磁場」のなかで考えている。
場所が持つ引力と表現がもつ牽引力によって形成されている磁場、である。
もはや捨て去る事も、切り離す事もできない。
そしてそのスピリッツの実体を聞こうにも、その恩人はこの世にはいない。

がんばる、と自然に思う。
もっとやれるだろ?と自問する。
もっとやれるよな。

矜持を捨てない図太い表現が私はみたい。
逃げ腰ではない腹が据わった表現者と多くの仕事がしたい。


さて、最後にこの言葉を。
私にとって恩人のエピタフであるし、
私のスピリッツが回帰する場所である。

「Alternative Vision and Network」

ナパーム片岡
2011.09.23 Friday

ぐれーふぃーるど

 考えてる事は沢山ある。
やりたい事も沢山ある。

例えば、GRAYFIELDというコピー冊子の1号を出して、
次が出せてない。書きたい事なんて本当はないけど、
書く事の快楽に浸るのは好きだ。
いつも私はテーマを決めて書かない。
流れのなかで、意識のどこかから湧いてくる着想を、
言葉に変換してく。
そこで手作業が入る。筆記。
頭のなかにあることが抽象的だとして、
言葉をたぐり寄せる、そしてそれを筆記する時の、
指の動き、身体的な制約が、バイアスとなって
観念に肉体性を付与すると考えている。

文章は一応「リニア」に進行している。
でも。観念は、想念は、イマジネーションは決してリニアで
論理的で整合性があるものではない。
一つの楔として、文体とか文意の効率的な伝達を考える。
情報の整理。私は本当にその作業が苦手だ。

そんなことを一応は考えるけど、
私は筆が走る快楽がどうしても好きだ。

ちょっと時間がとれそうなタイミングがきた。
仕事をまずする。
同時に、文章も書きたい。
ついでにレコーディングをしたいひとたちが沢山いる。
ステキな歌や、美しいノイズを演奏するインディペンデントな
作家は多い。
そんな人達の歌を私は文章と録音とライブの現場で支援したいし、
楽しい時間を一緒に共有したい。

まだまだやることはあるな。
まだまだ始まったばかりだと思う。

「一期は夢よ、ただ狂え」さぁ、はじめよう。
2011.08.31 Wednesday

中間領域での満足

前衛運動が銭に窮するは、前衛ある故にフォロアーが少なく、
経済的基盤が脆弱だからだ。
少なくともそのように仮定してみる。

もう一つの特性として、前衛はこだわりが強いほど経費は増加してしまう。

両者に対する考え方として、私は中間領域の拡張ということを考えている。
メジャーに対するマイナー、マイナーに対するメジャー。
その境はきわめて曖昧ながら、峻厳と存在する境界がある。
私は、その境界をより広く太くしたいと考えている。

グレイフィールド(中間領域)に意識を集中することで、
マイナーな運動がもつ可能性を変に歪めることなくみれるし、
メジャーな力がもつ巨大故の矛盾や無駄を節約できるマージンをみつけることができる。
(マイナーな領域の経済基盤を押あげるのが最大の目標である)
(つまるところ、上質でマイナーなもの、の顕彰が重要な任務であると考えている)
(メジャーに対する『インディーズ』という場合、たぶんにミニメジャーとしてのインディーであり、メジャーをスケールダウンしたものにすぎない場合が散見される)
(そのインディーはミニメジャーとしてメジャーにスポイルされるための
温床にしかなっていない場合が多い)
(フォレストリミットは『インディーズ』ではない。だが、インディペンデントである。
インディペンデントであり、マイナーでありメジャーのマイクロ版ではない)
(よってミニメジャーとしての振る舞いはとらず、インディペンデントとしての
矜持をもつ別の行動規範と経済原則が必要だと考えている)

単純に経済原則のみを優先して考えない。
クオリティーだけを考慮して動かない。
とりうる選択肢は、クオリティが保証された妥当で筋の通った収入を確保することだ。
極度に豊でも貧困でもない文化生活を考えたい。

閑話休題。
国民総中流化などという言葉があった。
あの時代は幸福だっただろうか?
貧困と富の距離はますます乖離していくようである。
富むものは奢り、貧しいものは怒り悲しむ世界になるのだろうか。

実際のお財布事情もあるだろうが、
私は中間帯域の文化生活を考えている。
重要な考え方として、現実的即物的な経費は案件の大小と正比例する傾向がある。
ただ、そこにおいて営業や運用に対する心意気や気遣い、
もっと拡大していえばイマジネーションなどは制約足り得ないケースが多い。
マンパワーこそ経費がかかるものだが、マンパワーほど数字で表すことが
できるものは少ない。
なにがいいたいかというと、心や魂で解決できたり改善できるのりしろが
あるなら、そこは全力を投下したいと考えている。

利益の分配については、汗をかいて働いた分だけもらい、
前提として汗を流して楽しんだ分だけお金を払えばいいのだと思う。

ナパーム片岡
2011.08.31 Wednesday

ARSであること

 そもそもこのブログはフォレストリミット店主・ナパーム片岡の見解をやんわりと表明したり、フォレストリミットでおこっていることをナパーム片岡視点で解釈したものをレポートするものです。

フォレストリミットはある種のARTIST RUN SPACEの体をとっている。
ある種の、と限定なのは、フォレストリミットという屋号で営業している
飲食店舗はナパーム片岡の個人事業であるから、厳密にいえば、
ナパーム個人の飲食店舗である。

私は経営と運用を分離して考えており、
運用のほうを主に20TN!をはじめとしたクリエーティブに従事する
人間で行ってきている。
すべての案件に対し私たち(経営+運営)がもつクリエーティブ
判定基準は機能し、クオリティーコントロールをしている。
一方で、多分にクリエーティブではない仕事まで
作家が行うことになる。

早々の新体制として、運用をさらに細分化し、
運用営業と制作部門に分化させたいと考えている。

インディペンデントなものや、前衛的な運動は、
その心意気や意思が強まるほど金銭的な損得、さらには
金銭的な流れを滞らせ、足下から地盤沈下していく傾向があった。

フォレストリミットはまごうことなき前衛であり、
オルタナティブであり、意思の表明としてART ATTAKを掲げている。
よって、お金基準での動きを度外視して動く必然がまま生じる。
同時に、歩みをとめないための収支をつくっていかないとならない。
当該用件は総半するものではなく、同居しずらい性質をもつものだ。
それを同居させるというのは、針の穴を通すような緻密なシステム作りと運用が
必要である。

運用を分派させたときに重要なのは、
制作がクリエーティブを第一命題として動き、
営業部隊は収支を第一命題として動くことである。

ARTIST RUN SPACEであることはフォレストリミットの特質であるし、
骨子を支えるアティチュードである。
そのスピリッツを保存しながら、商売は商売として成立させる。

ではフォレストリミットが考える商売について次項で書くことにする。
2011.07.04 Monday

気分はCLUB?

 ナパームです。

当店のサブウーファーはJBL の 4645という型番のもので、
シネマ用に開発されたウーファーです。

シネマシステムは、業務期ですがPA/SRとはまた違った
音の傾向と質感、及び機能を備えていると思います。

4645は推奨クロスオーバー周波数が80Hz〜120Hzでして、
今までUREI 525というアクティブチャンネルデバイター
で108Hzで利用しておりました。
そこを200Hzに変更した。
200Hz付近になると、音像を描くことが必要になってきますが、
正直4645ではそれは臨めない。
でも、クワッド4発と同時に鳴らすと、結果は良好に感じました。
ブーミーな低音ではあるのですが、
音の迫力は増加しました。

あと一点変更した点は、ウーファー駆動用のアンプを、
BGWからCROWN IC-150に変更しました。
本当は、最新式のCROWN/AMCRONを入れたいのですが、
とりあえず試しで。
主にダンピングファクターを高めるための変更です。

外したBGWはD130システムのほうにあてがってみるつもりです。
2011.06.28 Tuesday

ステートメント

なんだか浮舌が多忙すぎるのとコンテンツ的に量感不足が否めず、
キッチンペーパーがなかなかドロップできないので、
今号のステートメントをブログで公開します。
典型的な「夜型」文章ですが、
そのような熱病的文章は平常時の意識が強く抑圧するので、大抵忘れます。
いや、忘れるというより、記憶の奥底に追いやられる。
ただ、書いたものは書いたものです。
COMMAND+DELETEで実際に消滅させることは可能なのだけど、
衝動を排したところで、人格が変わる訳ではない。


「テン年代でオルタナティブであること。」


フォレストリミットの運営をするにあたり、

どうしても前世期の文化的試みのなかに参照点は多いと感じる。

フォレストリミット自体、80年代後半〜90年代後半に至る

文化状況を温床としている。

主に人的な理由においてそれは逃れられない事実である。

かの時代、消費社会の成熟と同時に、

オルタナティブな試みが自然と発生した。

自分の思ったことが、直裁に表現でき、その表現を公のものにできた。

ここでいう「公」とはマスなメディアと市場である。


フォレストリミットは、00年代のリアリティを大きく吸収しながら

00年代の終わりに出発した若いスペースであり制作集団である。

見据えるはテン年代の現場感覚。


オルタナティブという言葉と、それが意味するアティチュードは。

00年代を通していつぞやから消費され尽くした後の残飯の

ような臭気を帯びている。

それはオルタナティブを標榜した運動の劣化であり、

オルタナティブ精神の本質が劣化したのではない。

あくまで表象的なレベルでの劣化にすぎないのである。


私たちは、あらためて、あえて、オルタナティブであらんとする。

オルタナティブであることの理は、

自律的であること、衝動に帯するバイアスが少ないこと、

つまりクリエーティビティを具体化する手順がシンプルであることだ。


ざっくばらんにいえば、「やりたいこと」を実現するための環境があり、

その環境が作家性に対して余計なバイアスをかけないのである。

かのような理念を、スペースにそして我々の活動において標榜する。


00年代を通じたオルタナティブ精神の劣化をうけて

私たちは以下の教訓を得た。

「オルタナティブ=なんでもあり」という態度は排除すべし。

なんでも可能かもしれないアルティメット状態において、

自由さに溺れ閉塞していったシーンが多く生まれ、

外部被爆=批評されるることなき状況下で、

自己満足という中毒を起こした悪い意味での「自律ゾーン」=

なれ合いでの矮小なコミュニケーションの交換がいかに多かったか。

00年代を通じ、オルタナティブ精神は

形骸化したクリエーティビティを意味するものとなった。


「初期衝動から始まる戦略的攻撃性」


私たちは、オルタナティブな精神を復興させる、

否、若き事業体は常にオルタナティブであるのだ。


自分達のできることを妥協亡きクオリティで提供する。

刺激的!時に扇情的でさえある!!そのような力を創造する。


フォレストリミットを開設してから、

微力ながら私たちは私たちなりのミッションを遂行してきた。

その過程で、00年代の閉塞したクリエーティブが陥った多くの過ちも犯した。

だがもはやテン年代。時代は移ろい変わり、そのスピードは極限まで早い。

それは消費社会のトレンドが変幻自在に変貌していく「速さ」ではなく、

大きな構造が大転換するようなより本質的な社会的変革である。

その意味で、「マス」の概念が非常に流動的なのである。


「なんでもあり」の状態でクオリティをたもつには、

新しいビジョンで厳しく自律しながら、連綿たるオルタナティブ精神の屍骸から

立ち上がる聖性を吸収する必要がある。

その意味で、我々はオーセンティクでさえある。

「時計仕掛けのオレンジ」で、マルコム・マクダウェル

が愛唱するSingin' in the Rainのような感覚。


放射能の雨が降る中で、私たちは歌いながら踊る。

生命力に満ち満ちた、野蛮で屈強な美しさをもった、

祝祭の空間をいまここに!