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2012.04.20 Friday

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 今現在、4月20日の朝である。
私は、先日多くの友人とともに素晴らしいイベントを完遂した。
その後、友人と呼べる「酒場」で脳みそを飲みほぐし、そして今に至る。

親密で、嫌みのかけらもなく、まっすぐで、そして楽しく楽しい。
喜ばしき今日のその体験は私だけの「迷妄」かもしれない。
ただ、その現場に美しき「友愛」の精神は横溢ししていたし、
観客と呼ばれる、私のお客様ともその喜びの感覚は共有できたかと思う。
美しき日に乾杯、人の記憶はたよりにならないもので、
ゆくゆくは私も忘れてしまうかもしれない今日のその日の喜びを、
私は真剣に枕に抱いて眠りにつこう。
それは、私が精一杯発揮できる友愛の所作として、
記銘はできないかもしれないけど酔いどれの寝枕として、
喜びを夢へ、夢がやがて理想へ転換し、
希望の光として私の瞳に輝くことを願う。

などといいつつ、酔いどれのあくびのでるような退屈な咆哮であるが、
眠りにつく前に二ついいたいことがある。

今月号の「美術手帖」に、私どものスペースを取り上げていただいた。
至らぬ点ばかり目につく私どものスペースを、美文をもって取り上げて頂いた
ことに大変感謝しております。

ここに至り、「私ども」のスペースではなく、「私」が経営する場所としての
フォレストリミット、「生息圏の限界値」としてのサバイバルポイントとしての
場所=スペースに関し、補足的批判を加えさせて頂きたく、筆を執っている。

まず第一、根本的な話からしよう。
私は、「経営者」として、スペース運営における定石、すなわち可能な限りの
ビジネスにおける戦略を排除しておる。
すなわち、ビジネスにおける、「ターゲットを定め、
そのターゲトに対しブランディングをし、そしてその
ドメインのなかで覇権を握る」というパターン。
これは極力排除したい。

本文中においてオルタナティブスペースは未開発な「市場」を扱うゆえ、
その継続性においては不安定な要素を含むという指摘。
これには一般論として賛成するが、
しかし、転倒していえば、私はそこにおける「未明」性にかけるのであって、
すなわちアプリオリな市場の囲い込みと、その持続可能な発展を可能な範囲で拒否し、
そして市場、あるいはトライブ=文化的部族
にコミットすることを排除している。
しいていうならば不安要素こそが私の快楽であり、そして死なないための可能性である。
よって、その未明性に疑義を呈する事自体が無粋であるし、
そして、それは期待されていない。
「継続」という観点において。

ここで私のスペースの特殊性について話さねばならないが、
その前に一般的な話としてとして、読者諸氏に問いたい!
諸君、「オルタナティブ」なスペースが「百年」続いて「権威」にならぬようならば、
それは本来の意味での第二の選択=すなわち一義的なものを前提とし、その「代替」
を前提とした思考を、内在的に否定するものではるまいか?
それは選択されない未来を夢見る迷妄ではないか?

主流=モードは常に流転するものであるし、よって、
「第二の選択肢」も多様に流転する物である。

健全な社会は、オルタナティブなものが主流を駆逐し、
やがて「主流」になり、やがて「ロートル」になり、そして転覆される
循環にあるのじゃなかろうか?
永遠のオルタナティブなど、「永久機関」と同じく、迷妄の
類いに属する妄想である。
まずその点において、私は本文に置ける100年のロマンチシズムを排除する
側の人間である。

だが、私もロマンを追い求める汗臭い人間である。
よって、私はこのように思う。
「オルタナティブはなくらなない」。
ただし、それはDNAのようなかたちで潜在的に継承されるものであって、
形態として固定されるようなものではない。
よって、固定化されたターゲットも、市場もなく、
ただただ、モードに対するアンチとして存在するのである。
私は、私の店、あるいは私自身が永遠のオルタナであることを
恐怖する側の人間である。

さて、次に私の話をしよう。
美術手帖本稿において、私の店を「アンダーグラウンドを正統に継承する店」
と評された。個人史をたどればそれは正確ではない。
一番アンダーグラウンドに親和性が高いスタッフである
私がいいはるのだから、私の店はアンダーグラウンドの正統性を
継承してはいない。
むしろ、ナパーム片岡の店としてのフォレストリミットは、
アンダーグラウンドな関係性の断絶を前提に思考されている。
前にも書いたが、私の師と呼べる方の死を下敷きに
私はこの店を始めた。
ずーと考えるのだ。私の師が生きていれば、どのように共闘できるのだろう?
だが、私は同時にこのような感覚を常にもっている。
我が師が無くならなければこのような店はやっていいない。はじめてもいない。

継承と伝統の話は、基本的に個人史の連綿たるつながりにおいて
紡ぎだされるファンタジーである。
私は、前提として「継承」を断絶した地点から出発している。
仮にそこに連続性があるとするならば、
それは私の喪失体験からくる、未練がましい、
しかしストレートな欲望と妄想が織りなす「なにかよくわかないもの」、
に軸足を置いている。
私は、継承しているのではない。
私の罪を滅ぼすためにこの店を継続している。
その弔いが完了すれば、私はこの店を別のフェーズに移行させるだろう。
正直にいえば、その兆しは見え始めている。

オルタナティブスペースの永続性に関する疑義と、
個人史としてのアンダーグラウンドの継承について、
以上2点、批判的補足とさせていただきたい。
あとは、読者諸氏、当店のお客様にご判断をお任せする。

筆:ナパーム片岡
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