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2011.12.02 Friday

オルタナティブに関する覚書

2011年12月2日
ツイッターでの発言をまとめました。
10月30日にアップリンクで行われた討論会で、
いえなかったこと/考えたことを、特に決めず書き連ねたものです。

ーーーーーー


 
私は、何と戦っているのだろう?わからないのだ。強い憎悪を向ける明確な敵が思いつかない。でも、なにか心にわだかまりがある。そのわだかまりにに怒りが含まれることはたしかで、私は闘争であると認識する。経営とかを。見えない敵との戦い。ラスボスは自分だったりね、ツマラナイオチだけど。 

テンポラリーな役割を捨ててもいいと思う。例えばスペース運営者としての、スペースとか。でも、止めても良いと明け透けにいえるのは、テンポラリーな役割が終わっても、表現者や生活者としての「自分」は終わらない。自分と役割が近似値にあるのが、アーティストランスペースの重要な特質だと思う。続 

資本家にとって(そうだね、居酒屋の店主とか)は止めること=自身の生活の破滅だったりする。アーティストランスペース(以下、ars)は自己とパブリックを分けているが、運営は自己(作家)がやっている。「ars」は公共性と私性が未分化である。「(いつ)やめてもいい」の根拠は「私」だ。

「私たちは始める。でもいつやめてもいい。」運営者/経営者というロールは消えても、私が残るから。私は消えないから。arsというパブリックなものに対する責任意識が希薄なのではないかと危惧する。例!arsのディレクションにおいて、運営者の自己表現としてのコンテンツの選定がなされている。

FLに関していえば、分業化されたパッケージ(PA屋さん照明さんモ切りのスタッフみたいな)を売る「箱」商売は、表現者が表現をするにあたってのバイアスが多い。バイアスは表現を不可避的に限定/規定してしまう。arsは、作家作家が話し合って案件を進めるから、自由度が高い。

当店に限っていえば、重要なのは、クオリティーに関する「配慮」である。真摯で、素晴らしい表現と、なにかのイミテーションだったり、精度の低いコピーを排除しなければならない。でないと、結局のところ閉鎖的な空間にどんどん行き詰まっていき、そして「場末」になるか、退屈が場を支配するのだ。

当店の目指すところは、荒くれ者が集まる「場末」(心地よい仲間意識のなかの小競り合い)なんかじゃない。題目なきオルタナティブは、混乱を志向する、各イベントの一貫性のなさにおいての混乱であり、だが、一貫性のなさ(ターゲッティングがされたサイトの否定)は、まさに豊かさの可能性を秘める

貧困な時代は、過激な行動や理念にすがりたくなる。理念は、明確な社会像を提示する。理念の中身に寄るけど、多くの理念とその運動は、限定的な世界を希求しているという反転があると思う。私は理念を持たない。私にとってユートピアは、確立された社会制度のなかでは実現できない。続

理念的な制度や、強権的な制度は、結局のところ「あぶれもの」が生じる。無政府状態とはいわない。制度があるなかで、より曖昧な領域の経済活動や、表現活動や、生活ができればいいと思う。思いだした。総中流化の時代もあったな。でも、あれは理念的すぎた。理想が高く向上意識が美徳だった。続


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